的外れな言葉に傷つく前に読む雑記

Nov 20, 2018 23:59 · 3012 words · 7 minute read

これは一体

文章を書く練習の一貫で、最近思ったことを書く。
箇条書きと文章を使い分けられるいいかんじの人を目指して。
雑記です。もう。
身の回りでもやもやしたことがあったので、その整理もしたくて。

雑記

最近のこととSNSを眺めた所感


11月があっという間にすぎる。
この11月は高校の友人の大きい活動をたくさん見ることができて、めっちゃ嬉しい。
ライブや個展、トークイベントのように足を運ぶ場所も様々で、それだけでも普段の自分では訪れない場所に行くので出不精の改善にも繋がっている。(気がする。)

これは非常にありがたいことだけど、自分の周りには「作る」ことや「掘る」ことが好きな人が多い。(こういう人は「集める」とか「凝る」がうまい人も多い気がする。)
で、個人で頑張ったことを生業としたい時、活動を広めるにはSNSを使ったり、媒体に取り上げられたりそういったことが自ずと必要になってくる。
で、人からの批評も返ってくる。フィードバックや反応をもらうことは嬉しいだろうなと思う。辛いコメントもいいと思う。
でも的外れな中傷には、端から見ていても頭を抱えたくなる。

たちが悪いと思うのはシンプルな言葉の暴力よりも、見聞きしたことを自己流ロジックにのっけて変換した上で投げ返されるコメント群。
反応は早いのに、思ってもないところに引火したような。どや感まである。
(脱線:そんなテンションのコメントを見ると、なぜかペットボトルロケットを思い出す。飛ぶ時の水の撒き散らし方とか。)
正しくない引き出しを開けて突飛な引用を持ち出したりしていて、そんな飛躍を頼んでもいないし、もはや着地が遥か彼方。

そんなコメントを言われた側が頭を抱えたくなるのは、背景に見える悪意への悲しさもある一方、理解し難い着地点に一人で行って帰ってきているコメントに、なんて言ったらいいのかわからない状況に落とされる感覚があるんじゃないかと思う。
媒体に取り上げられるほどその領域の深掘りに時間を賭して見聞を深めた人だからこそ、「なんでそこに行き着く・・?」みたいなところから言葉を放られると、困惑が大きくなるんじゃないだろうか。

SNSや媒体のコメント欄を流し見ていればそんなコメントは日常茶飯事だし、そもそもこの雑記を書き出した自分が中傷を受けたわけでもない。
自分はそういう場に打って出たり発信したりできないタイプなので、突飛なコメントと絡む機会もなくそんなコメント群に対しては「いるなあ。」くらいにしか思ってなかった。
端から見ても明らかに的外れなので、気にする必要もないし、冷静な周囲の人からすれば誰がおかしいかは一目瞭然なので、言われた本人も無視できればいいと思っていた。

が、いざ言われたら意味のわからない言葉でも、しんどいよな、当たり前だけど。

言葉の「照準」


的外れだとわかっているのに、どうしてつらいのか。
人から言われたことに対し、そう思うことはネット上じゃなくても結構ある。

「あの人が言ったことは状況共有ができなかった不備によるものだから、次回から改善できる!」
「事情がわかる人だけに理解してもらえればいいから、それ以外からの反応は気にしない」

そんな風に頭で決着をつけても気分が一向に晴れないみたいな状況。
多分、傷つく言葉には要素がいくつかある。

ざっくり思いついたままに書くと 「内容」「体裁」「照準」。
うん、びっくりするくらい網羅的じゃないけど、雑記なので思いついたワードのままで書くか。

内容と体裁は、言い分と言い方なので、そのまま。「なにを言うか」&「どう言うか」。
内容の間違いがあると議論が組み立てられなくなるのでわかりやすいけど、言い方の部分は指摘が難しいなと常々思う。
で、今回の「的外れなコメントに傷つく怪」については「照準」が一つの答えかなと思う。

発言がそもそも誰に向けられたものか、が明確なことはポジティブな場面も多々ある。会議とか、プロモーション設計とか。
ネガティブな場面でも、内容と体裁が整っていれば言うこと自体はネガティブではない。と思う。
嫌なのは 隠れて狙ったつもりで照準を合わせている コメントや意見。

例えば、複数人の空間でつるしたい誰かを彷彿とさせながら、明言せずにまぶした表現をするやつ。
或いは、大勢に紛れて自分の姿をぼかした上で、ラッパを吹くように中傷コメントを投げるやつ。

そういう意見に対して、言われた側は反撃しづらい。明言されていなかったり、出所がわからなかったりするから。
冒頭から言っている的外れな意見は、後者の方。
出所がわからず反撃しづらい状況も問題だけど、知りもしない人に 「狙われた」事実が残ること に滅入る。
明らかに自分に照準があっている銃口を向けられたら、弾が明後日の方向に飛んで行ったとしても怖い。
銃口が向けられた理由さえ意味不明なときもあるし、それが自分が頑張った成果を発表する投稿や記事だったら尚キツい。

そういったコメントに耐性をつけまくっている人もいて、本当にすごいと思う。
でも、そういう耐性は全員にデフォルト搭載されてはいないので、百戦錬磨になる手前の人間にとって、キツいものはただキツい。

リアルな話とエモい気持ち


で。

「狙われる」ことは常に嫌だし、狙ってくる言葉は自分の頑張りと比例して減るものとも限らない。
多分それらを減らす確実な手立てはない。(いや、わからんけど。)

ただ、ネット上に限って言えば、人を狙った言葉は本人に限らず全員に見られている。
傷つける側と傷つけられた側の二人以外の、それと比較にならない数の冷静な人たちに思いっきり見えている。
自分の意見が的を外すことを怖がらない精神性も、外した内容も全部。
冷静な大多数の人からして、誰がヤバいかはすぐにわかる。

飛躍しすぎた独自論や中傷のように、イタかったり怖かったりするものには出所の暗さが見える。
それに共感できてしまったらヤバいし、判断力がある人はそういう暗いものに近づかない。だから過激な中傷であっても放置される。
意外とそういうコメントは誰も諭したりせず言いっ放しになっていることがある。それでいいと思う。

一方で、大きさに関係なく功績や個性を作ることができた人は、普段より目立ちやすくなる。
見えやすいものの周りには人が集まるし、理解者も加害者も増える。
人のスポットライトの中で暗い意見を思いついて言うことを我慢できない人がいても、それを 圧倒的大多数が冷ややかに見すごしている のが意外とリアルなんじゃないか?と思っている。

でも照準を合わせられた側の傷は残る。
自分の場合は、なんにしても傷ついたときに近しい友人が自分の考えを話してくれたり、自分以上に状況に対して深く考えてくれたりするとガチで嬉しい。それで気分が回復することがある。

と、ここまで思ったところで
「じゃあ、言葉にして本人に伝えない限りは意味ないな、自分」 と思ったので、一先ず文章にしてみた。

・・・こんなに長いはずじゃなかった。もっと端的に言えないのか、自分。つらい。

今後も、友人が顔もわからない人物から傷つけられるようなことがあれば、本人以上に憤ることしかできない無力さではあるが、本人の分も酒を飲みながら勝手に憤るので、嫌なことも話せるうちは話してほしいし、身の上の嫌なことを話せる関係性を保てるくらいには、今まで出会った大事な人たちとちゃんと連絡を取り合っていこうと思った。

あれ、作文。

次回は短い文章を書こう。

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